経営改革の断行と業績回復(1991~94)

1990年代はバブル経済の崩壊とともに幕を開けました。後に「失われた10年」と呼ばれることになるこの日本経済全体をおそった長い不況のはじまりにより、製造業界各社が設備投資を抑制した影響で当社の業績も大きな打撃をうけ、1992年度、1993年度と二期連続で赤字を計上しました。

こうした苦境のさなか、1992年の大坪英夫副社長の社長昇格を機に、当社の新たな変革の時代がスタートしました。大坪社長は、「木枯らしが吹きすさむ中で、既に新しい芽は出ている。これをどうやってふくらませるか」と全社員に問いかけ、「我慢と挑戦」をキーワードに経営再建の陣頭指揮にあたりました。業績の厳しいなかにあっても、研究開発費および設備投資は高水準を維持する一方、製品別に企画、開発、生産、販売までの一貫した実行計画を策定し、実直に仕事に取り組みました。

そのころ、日本経済はまだバブル経済崩壊の後遺症で低迷していましたが、アメリカをはじめとする世界各国では比較的好景気が続き、半導体製造装置の旺盛な設備投資に後押しされ、当社業績も1994年度には再び回復しました。

世界No.1メーカーへの躍進

日本は経済成長期の多品種大量生産の時代から経済の成熟期を迎えていました。当社は多角的に経営を広げるよりも、将来有望ないくつかの製品に集中投資し、その分野で圧倒的な強みを発揮することによって経営の柱とする経営戦略を採用しました。その対象に、ウェーハ製造装置の「スライシングマシン」、半導体製造のウェーハ検査工程の「プロービングマシン」、後工程の「ダイシングマシン」が戦略製品として選定されました。

当社の総力を結集して開発した次世代型プロービングマシン「A-PM-90A」が1992年度10月に市場投入されると、主要なお客様から高い評価を受け、累計販売台数が約3,500台にものぼる大ヒット製品となりました。

プローバメーカーとしての当社の実績は世界でも高く評価され、米国VLSIリサーチ社の半導体製造装置カスタマー(顧客)満足度調査で1996年から毎年連続で「10BEST賞」を受賞しています。また、国内外多数のお客様からも各種サプライヤー賞を受賞し、名実ともに世界No.1のプローバメーカーとしての地位を確保しています。

ワイヤソー「W-SL-300」

1994年ごろ、シリコンインゴットの切断は内周刃式スライシングマシンからワイヤソーの時代へと移行し、これをうけて1996年、次世代300mmウェーハに対応したワイヤソー「W-SL-300」を開発しました。長さ500mmのインゴットから一気に450枚のウェーハに切断することができ、生産能力が従来の2.5~3倍に向上しました。

フルオートウェーハプロービングマシン「A-PM-90A」

「プローバはこうあるべき」という信念のもと、総力を挙げて開発された「A-PM-90A」は、「次世代、高精度、高操作性、高信頼性、高拡張性」をキーワードとした完全無人化のフルオートプロービングマシンです。この製品は当初から世界No.1のマーケットシェアを獲得することをめざして開発が進められました。そのため、その性能ばかりでなく、開発・生産体制についても、「グループリーダー制」のもと、生産体制を外部委託から内作重視へと転換、市場投入、販売・サポート体制すべての見直し、海外体制の整備などお客様との密接な関わりを重視して、当社製品のモデルケースとなるべく、満を持して発表されました。熟練作業者が減少し、無人化、FA化が進んでいた検査現場において、CCDカメラによる自動針合わせ機能や10インチフルカラー液晶画面表示、タッチパネルによる入力方式などのすぐれた操作性も画期的と評価されました。そして、当社は世界No.1のプローバメーカーの座に返り咲きを果たしました。

フルオートウェーハプロービングマシン「UF300」

1997年には「A-PM-90A」の後継機である200mmウェーハ対応プロービングマシン「UF200」の販売を開始、翌年には、300mmウェーハ対応機「UF300」もラインナップに加わり、世界初の300mmウェーハ製造ラインで稼動しました。